Orang Jepang di mata orang Indonesia

インドネシア人が見る日本人 ( Orang Jepang di mata orang Indonesia )

色々なインドネシア人に聞いて調査してたんだけど、日本人ってどんな性格しているのか、どんな生活をしているのか、どうやって日本っていう国は国民が少なくても先進国になったのか、私の個人的な意見を語ってみる。この記事はお互いにインドネシア人と日本人が分かりあうように、特にインドネシアに住む日本人たちや日本に住むインドネシア人たちなど少しでも役に立つといいなあ~と望んで、書いてみた。

私は23歳ときからインドネシアで仕事や留学など活躍している日本人に囲まれた。日本語勉強を始め、仕事や家庭の中でも多く日本文化や習慣や性格など教えてもらって、今も日本社会に入って生活している。気持ちとしては変わらずにずっとインドネシア人の心のままでなり続けるが、環境の影響で習慣や考え方などだいぶ変わってきた。色々な日本人と出会って、もちろん変な人や悪い人もいるけど、日本人の性格が素晴らしいだち思っている。責任感が強く、思いやりで、時間とお金を無駄にしないことが好き。でも、運が悪くて日本にいるとしても、色々な嫌な経験をしてきました。夫と別れて、親友に勘違いさせられて、よく騙された私が「どうしてまだ日本にいるの?」とか、「どうして日本人のために活躍しているの?」とか「インドネシアに住んだら、あなたみたいな人なら(ごめん!自分を褒めた訳じゃない・・)いくらでも仕事が見つけてやすいし、ぜいたくな生活を送れるはずなのに、なんで?」と聞かれたりアドバイスをしてくれたりしたが、バカと言えば馬鹿だけど自分自身に聞いてみると、日本のことが好きで自分の存在はここにいるはずだと思っている。私にとって、運は運で、幸運と不幸は人生とともについているから、それだけは神様にお任せ。
生きる動力さえあればきっと良い道にたどり着くだろう・・と信じる。

「日本人ってどんな人なの?、、どうやって生活しているのか?、、日本での生活が高いの?、、」と気になっているインドネシア人も多いらしい。一般のインドネシア人のイメージから見ると、日本人っていうイメージが色々な意見が分かれているけど、共通点は日本人ってほとんど金持ちで働き者だと思われている。年寄の人の意見だと日本人って貧乏で厳しくて頑固な人と思われている人も多い。(多分昔の戦争を巻き込まれたインドネシア人やOSHINのドラマを見た人たちはそう思っているかもしれない)。でも、今そういうイメージはだんだん少なくなってきた。特にインドネシアに住んでいる日本人は生活が良すぎて、若者たちも外国で旅行など、のんびりしているばっかりのイメージが増えてきた。もう一つは、日本人ってほとんどケチだね~!と思われる人も何人かいる。何故そう思われているのかよくわからないがおそらく、日本人は何もしないで、ただでお金をあげる習慣がないし、チップやおごるなど習慣もないからだと思う。ほかに、きちんとお金を計算して、要るものや要らないものをちゃんと区別するしつけだと思う)。
一方、仕事の習慣から見ると、日本人は仕事やルールに関して厳しい、時間とシステムを守りすぎてロボットみたいな人間性になっていると思われている。インドネシアの生活習慣と全く違うので日本会社で働いているインドネシア人又は日本で働いているインドネシア人がその厳しさに我慢できなくて、すぐ辞めた人も多い。私の考えでは、いいところもあって悪いところもある。良いところは他の人に迷惑かけないためちゃんと時間とルールを守れば、スムーズで計画通りに達成できるし、時間を無駄遣いしないように大切にする。悪いところは人間関係があまりうまくできなくて、仕事場で仲間と友達になれないケースも多い。あくまでも私の意見、許してください。

Blok Mのカラオケで働いている女性たちの意見も聞いてみた。彼女たちは日本人との付き合いがほとんど毎日しているので何となく日本人の男性の性格が知っているらしい。「日本人は真面目で責任感があって優しい人だ」と思われている。一方で、日本人は馬鹿でよく騙されやすいという人もいるらしい。どうしてそう思われたのか私自身もはっきりわからないけど、夜の遊びというのはリスクもあって、一瞬でお金が無くなることもあって、毎週カラオケに来るたび、「今日私の誕生日だよ!」と聞かせるだけでプレゼントやお金をもらえるそう。最悪の場合は「私、妊娠したんだ!おろすお金が必要」と聞いたらすぐお金を出す日本人。万が一その日本人が帰国したら、インドネシアでは子供をおろすのが宗教的許されていないから子供の養育費が必要と思って、日本に帰っても毎月払っているという日本人もいる。Hati-hati Ya ! バカっていうかその性格が責任感があって、素晴らしい!と思う。引っかからないように上手く逃している日本人もたくさんいるので、いい方法を生徒たちが教えてくれた。私は女性なので、キャバクラみたいなカラオケにはほとんど行かないが生徒たちが私を利用されて、(通訳としてね!)一緒について行く感じ。

どうして日本人は金持ちと思われたか?気になる日本人も多いので、一応この記事に書いてみる。外見から見ると、インドネシアには普通の会社員や労働者たちはネクタイをしめて上着を着る習慣がない。マネージャや社長のレベルじゃないとその服装が似合わないとか恥ずかしいとか理由がはっきりわからないがインドネシア社会にはHigh statusとLow statusのギャップの原因の一つ。最初は私もそう思ったけど、実際に日本に住むとサラリーマンやバイトさんたちまでほとんどみんなネクタイをしている。今までハイレベルの人とか普通のレベルの区別が知らない。私にとって、日本では見た目で人を評価するのがとても難しいと思っている。目上の人から目下の人までお互いに尊敬し合って、思いやりがあったから。特に言葉遣いがあったので直接話さないと見た目では判断できない。よっぽど金持ちの人がいるとしても目立たない。(多分,ヤクザ以外)。ここでは人たちがほとんどマンションかアパートに住んでて、車も持っているから金持ちとは言えない。でも、インドネシア人の考えではそういう差がはっきり見えるのでインドネシアに住んでいる日本人がほとんど金持ちだと思われる。仕方がない。

私も日本人と結婚した時に「ヤン!金持ちになったね!・・」と勘違いされて、日本人と結婚するから普通の結婚じゃ恥ずかしいだろう!」といった親と親戚のために結局豪華な結婚式を行われた。人生の中、結婚はたった一回しかないと思ったから一生の思い出になろう。
どうしても頭に考えられないことは結婚届の手続きのこと。普段、インドネシアで行う場合は当時10万ルピア支払うのに相手が日本人だから100万ルピアに要求された。「なんで?」と聞いたんだけど「日本人だから」と言われて、納得理由もなし。お金を大切にする日本人にはやっぱりインドネシアだ。まあ~結婚する前に夫がイスラム教に入ってくれたので感謝の気持ちでOkelaah !(実は宗教変えるのが人の心次第だから一切お金がかからない)。
インドネシアに住んでいる日本人は見た目では贅沢な生活しているのだが、実はそうでもない。日本は安全性と便利さが何より大事だから、治安があまりよくないインドネシアみたいな外国にいても国や会社がその人たちを守るために仕方がなく決められた場所を選ぶ。ジャカルタでは日本人は運転するのがダメで、運転手付きの車を用意される会社が多いため、ほとんどバスやGOJEKに乗らない。そんな見た目で、どうしても日本人が金持ちというイメージがインドネシア人の頭には消されない。日本人にとって、いいかどうかは知らないが、悪い人に狙われないように要注意ね!
14年近くに日本で生活して、確かにほとんど貧乏な人はいないし、差別もない。外国人に対しては多層、距離感が感じているんだが、不便な生活はない。お互いに習慣や文化を分かっていればより豊かな生活を送るはずと思う。ただ、日本では主婦さえのんびりしている人があまり見かけないので、Robotみたいな生活に見える。最近は日本でも社会問題が増えているから、100%安全とは言えないけど住んでいる国の規則やシステムを守ればどこにいてもきっと楽しむことができると思う。
あくまでも私の意見なので、間違いかもしれないが勘違いしないようにお願いします。

f:id:yantihendriyanti74:20171022025214j:imageアイヌ

 

Latar belakang masa kecilku antara kerja, belajar dan bermain

 

Tujuan orang bekerja mungkin bermacam-macam tapi yang pasti ada satu tujuan yang sama secara umumnya yaitu untuk mendapatkan uang agar bisa memenuhi kebutuhan hidupnya.

仕事の目的は人によって様々あるけど、共通点は生活を満たすためにお金が必要。

Dulu, masa kecilku sampai aku menjelang remaja, kuhabiskan waktuku dengan bermain. Belajar ? Nggaak...!! aku anti buku ! Sewaktu aku SD tidak ada satupun buku yang aku beli. Mungkin waktu kecil aku tidak mengerti jerih payah orang tuaku menyekolahkan aku. Aku hanya ingat bahwa waktu kakakku masuk SD, aku akan menjadi sendirian, tidak ada teman bermain, jadi aku selalu ikut kakakku ke sekolah. Kebetulan, kepala sekolahnya masih kerabat bapak jadi aku diijinkan masuk area sekolah tapi tidak boleh masuk kelas.(Dulu, sistem KKN masih melekat dalam budaya Indonesia hehe...)

子供の時から十代にかけて、ほとんど毎日遊んでいたばかりで時間を過ごしていた。勉強???No ! 教科書なんて嫌い!小学校の時買った教科書一冊もなかった。小さいときはどうやって親が苦労したのか分かんなかった。家で一人で寂しいから姉が学校に行った時でも学校までつぃて行くとしか思い出さない。たまたま、校長先生はまだ親戚なので学校に入るのが許してくれたが教室までは入れなかった。(昔は賄賂・親戚・子孫という制度がインドネシアの習慣にものすごく強い)。

Akhirnya tahun berikutnya aku diijinkan masuk sekolah padahal umurku baru saja menginjak 6 tahun dengan konsekuensi aku tidak boleh menangis kalau tidak naik kelas. Maklum, dulu aku terkenal cengeng, sedikit sedikit menangis walau tanpa alasan. Tapi keluargaku dan orang orang dekatku suka sekali mendengar aku menangis dan senang sekali membuat aku menangis.

毎日学校でうろうろしいるから次の年にまだ6歳になっていたばかり私が進級できなかったら泣いちゃだめだよ!という条件でやっと学生として許された。前、私って泣き虫で有名、何もなくてもすぐ泣く癖。でも、なぜか家族と周りにいる人たちにとって、私の鳴き声が好きみたいでよく泣かせていた。

Bapak tidak pernah memaksa aku untuk belajar, apalagi emak yang nggak pernah mengerti kenapa orang harus pergi ke sekolah. Kalau ada waktu, bapak malah mengajak aku untuk maen Halma ( kalo di Jepang kayak maen Go) dan ketika aku SMP mulai diajak maen catur. Bapak suka sekali main permainan yang pake otak. Dan aku ? ikut aja.... entah kenapa makin lama aku juga terbiasa dan berkali kali mengalahkan bapak maen catur. Bapak bilang, kalau aku suruh kamu belajar, pasti kamu nangis, bukannya belajar malah ngurung seharian. Kebiasaan itu terbawa sampai aku dewasa, memang setelah remaja jarang sekali aku menangis, malu..... tapi kalau aku sudah tidak bisa menahan tangis, akan seharian aku terus ngurung di rumah tanpa melakukan apa apa. 

父に一度も無理やりで勉強させられなかった記憶が残っている。母??尚更だ。母は何しに学校に行くさえも分かんない。逆に父と一緒にいる時間はほぼ遊びに過ごしていた。日本のゴのようなGameとかトランプとか中学生になって、チェスの相手にしてた。父が頭に関するGameが大好きで、私も断れない性格なので、OKELAAH!と気に乗って知らずに上々とUPになって、父に勝ってた時もよくあった。なんで私を勉強なんてやらせないの?と聞いたら、お前が勉強したかったら、自分でやるし、無理矢理に勉強しなさいと言ってもただ泣くだけだろう!と答えた。

Pekerjaan bapak banyak sekali. Selain menjadi pegawai negeri di TNI AD, beliau juga kerja paruh waktu di sebuah percetakan. aku jarang melihat bapak punya waktu libur meskipun hari minggu. Kenapa aku tahu ? soalnya sebelum aku sekolah sampai aku SMP mungkin hari hariku lebih banyak berada di dekatnya. Aku selalu ikut pergi ke kantor bapak karena di sana aku bisa bermain di Taman lalu lintas depan kantor bapak, kalau aku bosan main, aku ikut ikutan mengetik atau corat coret di kertas. Dan waktu bapak ke kantor percetakan ( biasanya sore atau sabtu minggu ) aku ikut dan bermain dengan anak anak Bos-nya. semuanya laki laki dan bandel. tapi aku senang sama Bos bapak dan keluarganya. Meskipun mereka orang kaya, namun mereka selalu kelihatan miskin. Mungkin karena mereka keturunan China, kebudayaannya seperti itu. Di sana juga bapak bekerja sebagai juru Tik. Aku selalu dikasih Jigsaw Puzle bekas mainan anak-anaknya oleh Bos bapak, aku bisa tahan menunggu sampai bapak selesai kerja kalau asyik bermain Jigsaw Puzle. Mungkin masa kecilku tidak begitu menarik untuk dituliskan di sini dan ingatanku hanya itu.

Setelah aku masuk sekolah, aku tidak bisa ikut bapak lagi. Aku sekolah dari jam 7 sampai jam 12 siang, lalu kira-kira jam 3 sore, aku pergi ke sekolah agama. Tapi pada hari libur, aku masih suka bermain catur sama bapak. Waktu itulah bapak selalu berbicara tentang kerjaannya, teman-temannya, bagaimana mengatur waktu untuk pekerjaan dan keluarga. Aku salut sama bapak karena dalam kesibukannya bekerja, beliau masih harus mengurus keempat anaknya dari makan sampai pergi ke rumah sakit. Bapak sangat memahami sifat emak yang kelihatannya tidak suka mengurus anak. Itu yang kami rasakan tapi bukan berarti emak tidak sayang terhadap kami. Emak hidup di lingkungan keluarga yang semuanya laki-laki. Emak ditinggal mati ibunya sejak dia masih kecil. Bisa dibilang bahwa dia tidak mengerti bagaimana mengungkapkan kasih sayang, karena dia pun hidup tanpa kasih sayang ibu. Waktu kami kecil, kami bersaudara selalu bertanya, "Kenapa emakku tidak seperti ibu-ibu yang lain ?". Bukan kami iri kepada mereka yang mempunyai ibu sejati, yang 24 jam sabar mengurus anak-anaknya, justru waktu itu kami merasa senang karena emak tidak pernah menyuruh kami belajar, makan ( yang biasanya dibenci anak-anak ), atau kerjaan rumah. Emak juga merasa risi kalau kami ikut membantu pekerjaan rumahnya. Waktu kecil, kami jarang melihat emak ada di rumah. Dia suka jalan jalan dan kerja di rumah orang atau lainnya... aku juga nggak begitu tahu tentang emak.

Bapak jarang sekali memarahi kami, apalagi aku. Kadang kadang beliau marah sama kakak perempuanku karena dia sangat egois dan suka melawan emak. Sifatku tidak begitu menonjol dibandingkan dengan saudara saudaraku. Aku tidak begitu peduli dengan keadaan sekitar. Kalau aku sedih, aku nangis ! itu saja ya ! kalau cape nangis, semuanya selesai dan lupa apa yang aku tangisin tadi. Mungkin karena sifatku itulah banyak orang yang mau menjadi temanku. Kata mereka, kalau bermain denganku, tak ada beban, mereka bisa mengolok olokku semaunya tanpa aku marahi, bisa menjahiliku seenaknya karena aku tak pernah dendam, bisa curhat apa saja tanpa takut curhatannya itu diketahui orang. Bapakku pernah bilang, " Jangan pulang menangis untuk minta pertolongan !" kamu pasti makin dimarahi dan menambah kesedihanmu. Pecahkanlah sendiri jika kamu bisa, baru bapak akan dengar keluhanmu ".  Aku sangat menyenangi teman-temanku walaupun ada ada saja yang dilakukannya. Menurutku mereka punya cara masing masing untuk bisa beradaptasi dengan lingkungannya dan membuat appear untuk dapat diterima oleh orang lain walaupun itu dengan cara yang tidak baik. Dan aku sangat menghargai pribadi seorang teman yang telah mempercayaiku sehingga mereka bisa dengan leluasa menceritakan hal hal yang rahasia. Tapi, terus terang... sebenarnya aku lebih suka bermain sendiri. Waktu sendiriku bisa aku pakai untuk macam-macam seperti menulis, bermain peran, atau joget sendiri hehe... di depan orang aku sangat pemalu untuk menari.

Dengan latar belakang seperti itulah aku dibesarkan. Aku merasa beruntung punya bapak yang banyak memberikan perhatian, kepercayaan dan kebebasan untuk menentukan pilihan apa yang aku suka. Beliau tidak mengajariku dengan kata-kata, apalagi kekerasan. Beliau hanya mengajariku bermain, bermain, dan bermain dengan menggunakan pikiran. Bagiku beliau adalah tempat curhat, teman bermain, dan orang yang bisa membukakan dunia pergaulanku dengan berbagai macam orang tanpa memilih ras, agama, jenis kelamin, baik dari kalangan tua maupun muda. Bodohnya, sampai sekarang aku menganggap semua orang adalah baik walaupun jelas jelas orang itu bukan orang baik. Sampai sampai penculik yang pernah memasukkan aku ke dalam karung pun, aku anggap sebagai teman "petak umpet". Bakadane~!!

Telah aku katakan bahwa cara belajarku bukan cara belajar dengan buku karena aku tak punya buku waktu sekolah. Tanpa aku sadari juga, mungkin caraku belajar dengan mencuri tehnik orang. Aku bisa mengetik dengan cara melihat bapak bekerja, aku bisa mengatur strategi dengan cara main catur, aku bisa berbicara dengan cara mengambil pendapat dari orang orang dan aku bisa menjawab pertanyaan dengan cara menebak TTS ( Teka teki silang ). Memang tidak bisa dikatakan pintar, tapi aku bisa dan itu cukup. Dan satu hal paling penting yang pernah diajarkan bapak yaitu, " semua yang kamu lakukan pasti ada akibatnya, dan hanya kamu yang bisa mengatasinya. Maka, berbuatlah sesuai kemaunmu dan bertanggungjawablah atas apa yang kamu perbuat ". perbuatan baik atau buruk hanya Tuhan yang bisa menilainya. Seburuk apapun perbuatanmu, asal tidak menyusahkan orang lain, silahkan ! dan kamu harus bersyukur terhadap apapun yang dilakukan orang lain walaupun menurutmu itu buruk. Mereka adalah guru-guru kamu yang bisa membawamu pada kehidupan yang lebih baik. Aku tidak bisa mewarisimu dengan harta, tapi kalau kamu mau, aku bisa menyekolahkanmu sampai batas otak kamu. Kata-kata terakhir itulah yang selalu ada dalam benakku sampai aku putuskan untuk tinggal di Jepang. aku mengerti betul bahwa kondisi keuangan bapak tidak memungkinkan aku untuk belajar di luar negeri. Tapi dengan amanat itu, aku yakin bahwa suatu saat aku bisa berada di sini.

Setelah lulus dari universitas, aku bekerja untuk memenuhi kebutuhanku dan kalau bisa, membantu kehidupan keluargaku. Pekerjaan memang tidak ada yang mudah, semua perlu tenaga dan waktu untuk mendapatkan apa yang kita inginkan. Tapi, kalau aku berpikir seperti itu, mungkin akan lebih terasa cape dan susah. Kata orang bijak, "Cintailah pekerjaanmu maka kamu akan menikmati hasil kerjamu". Haa ?? mana ada ada cinta itu disengaja atau direncanakan ? Bulshit ! Kadang -kadang aku tertawa sendiri. Tapi, ternyata itu betul !! Pertama mulai kerja, aku tidak pernah mencintai pekerjaan. Kalau bagiku cocok, aku teruskan bekerja, tapi kalau tidak cocok dengan kemampuanku, kenapa harus diteruskan ? berhenti aja ! itu prinsipku pertama kali. Tapi, setelah bekerja di perusahaan Jepang, ternyata prinsip itu harus kubuang jauh jauh. Bekerja di perusahaan Jepang memang sangat keras bagi orang Indonesia. Mereka disiplin akan waktu dan kepercayaan. Tapi, rata rata di perusahaan Jepang, orang yang baru masuk kerja akan diajarkan secara detail dan sungguh sungguh sampai orang tersebut bisa melakukan pekerjaannnya sendiri. Mereka tidak akan menyerahkan pekerjaan begitu saja kalau mereka betul betul tidak yakin orang itu mampu atau tidak. Dan mereka akan begitu sabar mengajari kita sampai kita bilang bahwa aku bisa melakukannya sendiri. Sebodoh apapun orang itu, mereka tidak akan mudah mengeluarkannya dari perusahaan kecuali alasan alasan tertentu seperti bolos kerja, kurang ajar dsb. tetapi mereka memberi kebebasan untuk keluar jika memang pekerjaan itu tidak cocok. Bagaimana aku tidak bisa mencintai pekerjaan kalau ada orang orang yang mengajariku seperti itu. Sebaliknya, suatu keuntungan kalau kita bisa bekerja di perusahaan Jepang, yaitu kita bisa belajar tanpa mengeluarkan uang bahkan dibayar. Dari sana, aku banyak menyukai orang Jepang, mungkin bukan pekerjaannya yang aku cintai, melainkan karena aku mencintai orang orang itu, aku tidak mau berhenti dari pekerjaan. Ini mungkin hanya pendapatku saja, semakin kita mencintai orang, semakin semangat pula kita kerja untuk orang itu. dengan semangat itu, semakin dalam juga kepercayaan mereka terhadap kita. Jika kita bisa menjaga kepercayaan itu, semakin mudah pula kita melakukan hubungan sesama manusia. Jika hubungan sesama manusia baik, semakin mudah pula kita mencapai apa yang kita inginkan. Mudah, kan ?

Pada intinya, apa yang aku tuliskan di sini adalah bagaimana hubungan antara bekerja, belajar dan bermain. 

Dalam pekerjaan, anggaplah kita sedang belajar dengan beasiswa tanpa mengeluarkan biaya. ( kesenangan pribadi )

Dalam belajar, jika kita bisa mengamalkannya, anggaplah kita sedang membahagiakan orang orang di sekeliling kita. ( kesenangan umum )

Dalam bermain, jika kita bisa menjadi teman yang baik, tetaplah bersikap Positive Thinking terhadap apapun yang teman kita kerjakan. 

Bagi orang Jepang yang belajar bahasa Indonesia, nanti aku terjemahin ke dalam bahasa Jepang ya !

 

f:id:yantihendriyanti74:20170929233855j:plain

 

 

 

 

Takdir 縁、運命 一回の出会いで、人生を変えた。

Hari ini aku ingin menulis tentang pengalaman bertemu dengan seseorang.
今日はある人と出会いの経験の事を書きたい。

Pengalaman ini adalah pengalaman yang sangat berkesan dalam hidupku ketika aku mengajar di sebuah sekolah bahasa. Mungkin ini juga yang membuat perjalanan hidupku berubah.
この経験は語学学校で教えていたときに、私の人生に一番印象残っている経験である。きっと、これも私の人生の旅が変えた。

Ada anak muda 20tahunan bilang " Hai yang di sana ! aku mau belajar bahasa Indonesia ! kamu bisa mengajar, nggak ?". Kata katanya begitu tidak sopan dan aneh 😅(kayak aku..) "Hei boy ! darimana kamu tahu bahasa Indonesia itu ? ko' aneh sekali sih ? " aku tanya. "Dari apli 😂 " katanya. "Wah, kalo gitu aku harus ngajarin kamu bahasa Indonesia yang baik dan benar, ya !" .....
20代の少年は「おい、あそこにいる君!インドネシア語を習いたいんだけど、教えてくれないか?」変なインドネシア語でちょっと失礼な言い方で話しかけた。(普段私のように😅)
私は「hi, boy!どこからそんな変なインドネシア語を知ってんの?と聞いて、「アプリからだよ!と言ってた。「それじゃ、お前に丁寧で正しいインドネシア語を教えてあげないとね〜!と決心した。

Karena dia tidak punya teman dan tidak ada kerjaan di Sapporo, hampir setiap hari dia belajar bahasa Indonesia. Tanpa terasa, hanya dalam 2 bulan saja kemampuan bahasa Indonesianya meningkat. Tapi... emang udah dari sononya sifatnya sudah aneh, berbicaranya pun selalu asal asalan. Oleh karena itulah kami bisa belajar dengan senang tanpa beban dan akhirnya kami sudah berteman dengan baik.
友達もいないし、やる事もないので、ほとんど毎日、彼はインドネシア語を勉強してた。あっという間に、2ヶ月でかなりインドネシア語が上手になってきた。元々性格が変だからインドネシア語で話してもふざけてるばかりで、それこそが楽しく勉強でき、親友になった。

Kami selalu berbicara tentang banyak hal sampai hal hal yang pribadi. Aku sudah banyak pengalaman tertipu orang, karena katanya aku terlalu baik sehingga sulit sekali mempercayai orang lain apalagi baru kenal. Tetapi dengan dia, aku bisa curhat apa saja karena dia juga hanya mendengarnya sambil lalu. dan akhirnya lupa apa yang kami bicarakan hehe... tapi setidaknya unek unek yang ada bisa tersalurkan dan beban di kepala menjadi ringan. Semua orang punya masalah, tapi kalau dinikmati, masalah itupun hilang sendiri.
私たちがプライベートのこと迄、色んなことを話し合っていた。私の性格って優しすぎるからと言われて、よく人に騙された経験が多いため、他人に信用するのがとても難しい。なお更知り合ったばかりの人。でも、彼には楽に心を開いて、なんでも喋れる。多分、彼もその話を無関心に聞き流してたから。結局、話したこと自体も忘れちゃった😝。ま〜少なくとも、悩みを解放されて頭も軽くなった。皆んなが色んな悩みを持っていると思う。だが、人生を楽しめばその悩みが自然に消えていく。

Gara gara itu, suamiku cemburu ( aku juga tidak habis pikir ko' bisa cemburu ?) dan kelakuannya mulai ada ada saja. Dia ingin membuat aku menjadi sebal atau "Caper". " Masa siiih??? dia kan cuman anak laki laki yang lebih pantas dianggap anak !! Aku juga hanya sebatas berteman, tidak lebih dari itu. Tapi, suami juga seorang manusia, punya pendapat tersendiri tentang itu. Aku juga memakluminya. Tapi, kelakuannya semakin menjadi jadi dan aku tidak tahan lagi dengan buli-an nya, pada akhirnya kami putuskan untuk tinggal sendiri sendiri. Aku tidak menyalahkan anak muda itu perusak hubungan rumah tangga kami, banyak hal hal yang ada di antara kami, dan setelah kami pertimbangkan secara matang demi kedua duanya akhirnya aku berpisah dengan suami. Kebetulah waktu itu aku juga ingin melakukan cita cita yang tidak bisa aku pendam lagi dalam hati. Aku ingin mengajar ! aku ingin sisa waktu hidupku bisa bermanfaat bagi orang lain dan membalas budi khususnya pada orang Jepang yang telah begitu baik menerimaku tinggal di sini. Suami juga punya masalah sendiri dan mau menyelesaikannya sendiri. Atas keinginan dari suami juga, akhirnya kami lebih baik berpisah sementara. Aku pikir ini jalan yang terbaik.
そのせいで、夫が(自分も考えられないぐらい)嫉妬してしまって、嫌がらせをして始めた。まさか?と思って彼がただの少年だよ‼️友達の関係以上なんて考えられない。でも、夫は夫で、彼なりに考え方もある。嫌がらせがひどくて耐えられなくて、結局別居することになった。少年のせいでもないけど、色々なことを判断した上で夫と離れた。そのとき、自分もやりたいことがあって辞められなかった。私が生きている間に人生残りを少しでも人に役に立つようにできることはやってあげたい、インドネシア語を教えたい、特にお世話になった日本にと日本人に恩返ししたい!という夢がある。夫も立って直したいと言って、しばらく別々のほうが楽だろう。

Kembali pada cerita anak muda, kami sering berbicara tentang kondisi kehidupan di Indonesia, bagaimana orang Indonesia, pengalamanku waktu muda yang hampir mirip dengan sifatnya. Kami punya banyak kesamaan. gerabak gerubuk, tanpa dipikirkan secara matang terlebih dahulu, yang penting lakukan dulu ! . Justru dengan sifatnya yang sama seperti itu, aku sangat khawatir kalau dia seperti aku sekarang. Sebelum dia menyesal di kemudian hari, sebisa mungkin aku akan mendidiknya!. Sifatnya sangat halus, dan keinginannya tinggi untuk memperbaiki Indonesia yang belum secanggih Jepang. Dia suka sekali orang Indonesia mungkin karena kebetulan dia bertemu sama aku orang Indonesia yang baik. hehe... Kami berdiskusi bagaimana agar orang Jepang bisa terbuka terhadap orang Indonesia khususnya muslim yang tinggal di sini dan bagaimana orang Jepang bisa belajar bahasa Indonesia dengan mudah tanpa mengganggu kesibukan kerja mereka.
少年の話に戻って、私たちがインドネシアの生活やインドネシア人の習慣・一般的な性格や若いときの経験などを話していた。彼は自分の若いときの生き方とよく似てた。おっちょこっちょい!しっかり考えないで、先に実行する性格。それこそが心配でたまらない。今の私みたいにならないように後悔する前にしっかり躾けしようと‼️彼が優しすぎて夢が溢れてる。私たちは日本のようなインドネシアを進歩させたいと、インドネシア人が好きで(たまたま優しいインドネシア人の私みたいに出会ったからじゃない?😝)特にイスラム系、日本にいるインドネシア人に対して、どうやって日本人が広い心で受け入れるとかどうやって日本人が仕事に邪魔を邪魔しないで楽にインドネシア語を勉強できるとか...そういう夢を持ってよく相談していた。

Suatu hari tiba tiba dia memutuskan untuk pergi dan coba tinggal beberapa bulan di Indonesia. "Yan, aku mau tinggal di Indonesia dan belajar merasakan bagaimana hidup di sana ! kalau aku tinggal di hotel mungkin susah, aku mau "Kos"!
"Apa ? mana mungkin kamu bisa tinggal di sana dengan gaya hidup kamu seperti ini ?"...yanti
"Coba ya !" Aku pasti bisa !
Haa... apa boleh buat... tapi kamu harus ikutin kata kata aku, ya ! jangan nakal dan harus sopan kalau tidak mau ditampar orang di sana ! akhirnya aku membantu mempersiapkan kepergiannya ke Jakarta.
ある日、突然彼が何ヶ月かインドネシアに行って、住んでみたいと決めた。「ヤン‼️インドネシアに居て、直接インドネシアの生活を味わいたい。ホテルに泊まれば、出来ないと思うから下宿みたいな所に普通なインドネシア人の周りに生活したい!」と言った、少年。
「は?何?お前みたいなライブスタイルはインドネシアに住むなんてできるわけないだろう!」とヤンテイ。
「やってみたいよ!」と甘えん坊みたいな言い方少年。
「仕方ないな〜。私の言うことを付いていけばokeraa!そこの人に叩かれないように、人にふざけないで丁寧な言葉で使いなさい!と言って、ジャカルタに行く準備を手伝った。

Melihat tekad dia yang begitu bulat, aku salut. Aku banyak belajar dari dia, motivasiku untuk terus berusaha mencari ide bagaimana cara mengajar bahasa Indonesia dengan mudah, bagaimana menikmati hidup ini dalam kondisi sesulit apapun.... sedikit sedikit aku juga bisa merubah hidupku menjadi lebih berani. Aku bisa menjadi diriku sendiri dan melakukan apa yang aku inginkan. Meskipun aku hidup jauh dari keluarga dengan menghidupi seorang anak, yang bagi orang lain itu sangat menyusahkan, tapi aku puas dan bersyukur kepada Allah. Kebahagiaan tidak usah dicari melainkan dibangun sendiri.
彼の意思を見て頭を下げる。凄いな〜!。私は彼からたくさん勉強ができ、どんなに辛くても人生を楽しめる方法が見つけた。少しずつ私も勇気を持って、自分の人生を変えた。私のままでいて行く。やりたいことをやって自由のままで生きている。遠く離れた国で生活して、一人の息子を面倒見て、大変と言われたけど満足して神様に感謝する。幸せは探すことじゃない、自分で作ると自信たっぷり生きていく。

Belakangan ini dia berteman dengan banyak orang Indonesia. Ada juga diantaranya yang hanya memperalatnya saja. Aku sudah memperingatkannya tapi malah yang terjadi, semua hubungan komunikasi ( SNS ) diputuskan begitu saja. Akhirnya kami tidak bisa saling berhubungan lagi. Dengan kondisi yang sulit seperti ini, perasaanku mengatakan bahwa dia juga merasa kesusahan. Apa boleh buat....
最近彼はたくさんインドネシア人の友達ができた。ただの利用される人もいた。注意したけどどうやら逆切れで、連絡も取れなくなった。彼もこんな状況で辛いのかな〜。まあ仕方がない。


Bagiku dia adalah pemberian dari Tuhan atas doa doaku selama ini. Sekarang aku tidak tahu di mana dia, apa yang dia lakukan tapi dia selalu hadir dalam doaku.
私にとってあの少年は神様からのプレゼント。どこにいるのか?何をしているのか分かんないけどお祈りの中にずっといる。

私の日記 "大学性時代"

Dulu, tak pernah terpikir sama sekali bahwa aku bisa berada di Jepang sampai sekarang. Saat masuk universitas jurusan bahasa Jepang pun, itu adalah suatu kesalahan kode masuk jurusan, apalagi bermimpi akan tinggal di Jepang. Tapi apa boleh buat ... aku malas kalau harus mengikuti UMPTN lagi, pasti perlu belajar lagi. Akhirnya, terpaksa aku masuk jurusan bahasa Jepang. Katanya sih kalau dijalanin dulu, di tengah jalan aku bisa pilih jurusan yang lain tanpa tes.
以前、今まで日本に住むのが全然思いも付かなかった。日本語学科の大学に入った時さえも学部のコードが間違ってたのに、尚更日本に住む夢も全く考えられなかった。でも、またテストを受けるのもめんど臭いし、また勉強しないとダメだし、仕方なくて、入ろうか、、と思った。(私って怠けもんだよ!)。一応入ったら、テストなしで、途中で学科変更しても大丈夫と聞いたのでとりあえずその選択を選んだことにした。

Waktu belajar bahasa Jepang di Universitas, ada 2 orang dosen yang lucu dan streng, 1 orang dosen Kanji, dan satu orangnya lagi dosen Honyaku. Aku suka sekali mereka, satu seperti ibu, satunya lagi seperti ayah. Lagipula, kalian tahu, kan ? pelajaran itu paling sulit dalam bahasa. Justru yang sulit itulah kesukaanku.
大学で、日本語勉強した時に可愛い女性教授と厳しい男性教授がいた。一人は漢字を教えている教授ともう一人は翻訳を教えている教授、大好きな人達だった。なぜかというと、お母さんとお父さんみたいな存在。しかも、言語ではその項目は一番難しいって知ってるでしょ!難しいだからこそ、私の好み😉😅。

Makin lama makin suka, sampai sampai aku lupa mau pindah jurusan lain. Tapi, karena dasarnya pemalas, bahasa Jepang nya juga tidak pintar pintar. Aku pikir sih tidak apa apa, toh meskipun pintar nggak bakalan bisa kerja dengan modal bahasa karena waktu jamanku sedikit sekali perusahaan Jepang yang ada di sini.
だんだん、日本語が好きになってきた。学科変更すら忘れてしまった。だが、元々怠けものだからなかなか日本語マスターにはなれなかった。ま〜いいや!どうせ、上手になってもたった日本語だけで仕事できないだろう。。。当時、インドネシアで日本企業があまりにも少なかったから。

Di universitas, hari hariku kebanyakan dipakai untuk bermain, cari cowok, naik gunung, nonton konser dll. Tidak terasa sudah tahun keempat aku belajar bahasa Jepang, masa masa harus menulis skripsi pun tiba. Memang skripsi itu kapan saja bisa dilakukan selama menjadi mahasiswa, tapi aku nggak bisa lama lama "ngendok" di universitas karena kondisi keuangan yang pas pasan. Aku tidak bisa mengandalkan orangtuaku yang sudah gagal memenuhi keinginan mereka. Malu sekali deh ! Waktu itu aku sudah menjadi bos wartel dan sedikit sedikit mengajar bahasa Indonesia kepada orang Jepang jadi biaya kuliahku sebisa mungkin pakai uang sendiri.
大学で私の日々がほとんど遊んだり、彼氏探したり、山登りしたり、ロックコンサートを見に行ったりした。あっという間に、4年目に入って論文を書く時が来た。もちろん、論文を書くのは時間限りはない。大学生になる限り、いつでも書きたいときにやれる。でも、ずっと大学に長くいられるのもいかない。お金のこともギリギリだし、ずっと親に頼るのもゴメンだし、彼らの夢を叶えてあげれない私にはとても恥ずかしい。大学生時代、友達と公衆電話局を開店し、たまには日本人にインドネシア語を教えたから大学費は自払い。

Gara gara patah hati, akhirnya penulisan skripsiku tertunda setengah tahun. Isi skripsinya kalian mau tahu ?? tentang "PENERJEMAHAN" lho ! baguuuuus sekali ! Sampai sekarang pun aku juga tidak bisa percaya kalau aku bisa menulisnya seperti itu. Kalau sekarang aku disuruh untuk menulisnya lagi, mungkin nggak bisa. Karena harus ditulis dalam bahasa Indonesia dan Jepang, skripsi itu akhirnya tuntas juga dengan minta bantuan kepada teman akrabku. Kalau ada yang berminat silahkan pergi ke universitasku dan membacanya ya !
失恋のせいで、半年長引くなってしまったが、やっと論文を書き終わった。しかも、論文の内容は翻訳のことだった。素晴らしかった‼️今までも自分がこんな論文を書けるなんて信じられなかった。今、書け‼️って言われたら、出来ないと思う。インドネシア語と日本語で書かなきゃいけないので、親友と力を合わせてやっと出来た論文。興味ある方は是非足を運んで大学に行って読んでください。
Sebelum wisuda, aku sudah bekerja di Jakarta. Aku bekerja di sebuah sekolah bahasa untuk orang Jepang sebagai pengajar bahasa Indonesia. Ibu kepala sekolahnya orang Jepang dan sangat ketat luar biasa. Beliau mendidikku dengan keras sampai sampai pada awalnya sering aku berpikir lebih baik keluar dari tempat ini karena gajinyapun kecil bangets ! Tapi lama lama setiap aku mengajar di kelas, aku sangat senang bisa berbicara dengan murid muridku dan sayang sekali kalau berhenti dari sekolah ini. itung itung latihan bahasa Jepang lah ! ( mungkin karena hobiku suka ngomong yaa...😝). Aku pikir di sini aku lebih banyak mendapat ilmu daripada kerja. Padahal gajiku hanya cukup untuk ongkos PP Jakarta-Bandung sehingga aku jarang pulang ke Bandung meskipun hari libur. Untungnya, tempat tinggal disediakan oleh sekolah dan boleh makan sepuasnya. Ada pembantu yang selalu siap memasak.
卒業式の前にジャカルタで仕事していた。日本人の為にインドネシア語の教師をしていた。校長先生は日本人の女性で厳しい。最初はあまりにも厳しくて、給料も少なくて、頻繁に辞めようと思ってた。だが、教える度に生徒たちと会話できるのが楽しくて辞められなかった。喋るのが好きだからかな〜😂。仕事というより勉強だ!だから、給料がジャカルターバンドンの行き帰りしか出来ないから休みの日でもあまり帰らなかった。幸い、住む所は学校が用意してくれた。ご飯も食べ放題。お手伝いさん付き‼️😍

Aku pulang ke Bandung waktu wisuda dengan cara "Kabur". Wisuda diadakan pada hari Senin dimana semua orang kerja. Aku kerja dari jam 10 pagi, hari Minggu malam aku pulang dan pagi pagi aku wisuda. Bagaimanapun kepala sekolahku tidak mengijinkan aku untuk libur. Untuk apa wisuda ? kamu sudah kerja di sini, nggak perlu surat ijazah ! kata Beliau. Tapi, mungkin wisuda ini hanya dilakukan 1 kali seumur hidup dan sekali saja ingin menjadi kebanggaan orangtua. Akhirnya aku lari dengan konsekuensi "dipecat". Tapi ternyata tidak sampai dipecat hehe...
卒業式に「サボる」でバンドンへ帰った。卒業式は月曜日に皆んな仕事の時間のときに行なっていた。どうしても校長先生が「ダメ!ここでは卒業式の証書なんて要らない。」と言ってた。だけど、もしかして、人生の中で一度しか出来ない卒業式だし、親に自慢したいだし、結局「クビ」の覚悟で帰ってしまった。でも、クビにはならなかった。
Kepala sekolahku keras sekali dalam mendidik tapi hatinya sangat baik. Sampai hari inipun aku tetap menghormatinya. Kadang kadang Beliau seperti ibu, teman ada kalanya juga seperti Bos Madam. Beliau selalu mengajarkan aku tentang kebiasaan di Jepang, sifat orang Jepang, kebudayaannya dan pemakaian bahasa yang sopan. Kapan kapan aku nge-gosipin Sensei ya !
校長先生は厳しいけど凄い優しい方。今も尊敬してる。時々お母さんみたいな存在で、友達みたいな存在でマダムみたいな時もある。日本の習慣や日本人の性格や文化や丁寧な言葉もいつも教えてくれた。いつか校長先生のことを話しようね〜!

Karena baterenya hampir habis, sampai di sini dulu ceritanya. Nanti aku akan menulis tentang pengalaman kerja. Sampai jumpa !!
電池が切れてるので、この話はとりあえずここまで終わり。次回、仕事の話でも書いてみる。楽しみ‼️またね‼️

Yan's Story

Coba-coba bahasa Indonesia " Perkenalan diri "

f:id:yantihendriyanti74:20170822181922j:plain

Kenalkan,
Nama saya ………(名前)
Saya orang ………( …..人)
Saya …. / Saya bekerja sebagai …..(仕事の名前)
Saya bekerja di ……(仕事の場所)
Saya berasal dari ….. / Saya datang dari ….(出身)
Senang bertemu dengan Anda

Saya = 私                                     Anda = あなた
Nama =名前                                 Di = に・で 
Orang =人                                    Dari = から
Guru = 教師                                  Ke = へ
Bahasa = 言語・言葉      Dengan = と、で
Bekerja =働く・務める      Sebagai = として
Tinggal = 住む                              Berasal = 出身地
Senang =嬉しい                           Datang = 来る
Bertemu = 会う

 

 相手のことを質問する時

Siapa nama Anda ?
Anda orang mana ?
Anda berasal dari mana ?
Anda bekerja di mana ?
Apa pekerjaan Anda
Anda tinggal di mana ?

# 子供や自分よりも若い人に対して、andaの代わりにkamuや名前だけでも結構です。相手に対して、初めて会った時には、必ずBapak … (男性), Ibu …(女性)を呼びかけしましょう。会社や学校など正式の場合は年齢関係なく必ずBapak、Ibuを使うほうがより丁寧。

Siapa (誰)
Mana (どこ)
Apa (何)
Pekerjaan (仕事)

 人称代名詞

一人初代名詞 :Saya, Aku, Kami, Kita

二人称代名詞 :Anda, Saudara, Kamu, Bapak/Ibu, Mas/Mbak
Kalian, Saudara saudara, Bapak bapak/Ibu ibu

三人初代名詞 :Dia, Beliau, Mereka

 KOSAKATA

Jenis Pekerjaan (仕事の種類)

Guru = 教師 Tentara = 軍人
Murid = 生徒・学生 Pembantu = お手伝いさん。メイド
Mahasiswa = 大学生 Supir = 運転手
Dokter = 医者 Atasan = 上司
Perawat / Suster= 看護婦さん Bawahan = 部下
Pegawai kantor = 会社員 Kepala bagian = 部長
Pegawai Neger = 公務員 Kepala seksi = 課長
Karyawan = 労働者 Direktur = 社長・会長
Kepala kantor = 社長 Manajer = マネージャー
Sekretaris = 秘書 Personalia = 人事部
Presiden = 大統領 Akuntan =
Menteri = 大臣 Resepsionis = 受付
Perdana Menteri= 総理大臣
Polisi = 警察官 Pegawai bank = 銀行員